I cannot afford to waste my time making money
金稼ぎのために時間を無駄になんてできない。
豊かさとは何か? 幸せとは何か?
休むまもなく金を稼ぐために働いて、たくさんのお金を持ったとしてもそれは幸せといえるのか?
極端な話をすれば、会社で働いている人間というのは時間をカネに変える作業を繰り返しているに過ぎず、
しかもカネは生きる上で必要なのでこれをやめる事もできない。
つまり、作中でさちが特別高等人によって1日12時間に制限されているのと同じように、現代社会で忙しなく
働きつづけている人間は会社や仕事によって1日を12時間、8時間と制限されているのと何ら変わらず、
彼らもまた社会経済システムの犠牲者であり、大多数はそれをごまかし続け、決して直視しない。
What force is more potent than love?
愛より強いものがあるとでも?
これ以上ないってぐらいに夏咲シナリオのテーマそのものです。
ところで、このシナリオで愛より強いものという比較のポジションに立つものが、まさに本作の義務という
特殊な法社会システムそのもので、他の2つのシナリオとは違って夏咲はこの法社会システムに正面から
向かい合って、それを破る事を選択します。このシナリオ運びはそのまま法社会システムへの問題提起として
機能するという側面を持つわけですが、それを完結させるのがそれ以降の章なので実はこのシナリオは問題の
提起部分にしか過ぎません。
I shut my eyes in order to see
目を閉じてこそ見えるものがある。
問題意識的な切り取り方をすれば、社会システムの犠牲者という意味での第三世界や孤立し隔絶されたマイノリティ
の存在、それに対する無関心が引き起こす問題に対して、ライターが自分の主張を投げかけたと考えそうになりますが、
黒い太陽の義務を課せられた璃々子が一種の悲劇的偶像として描かれていない点、作中の法社会システムに対する
レジスタンスの象徴として登場している点を考えるに、ある意味、璃々子は法社会システムに疑問を抱く一般大衆の
代弁者として、またゲームのプレイヤーの視点を共有する役割があるように思えます。
すなわち、公開処刑のシーンでギロチンが置かれた広場で大衆が口に出せないながらも義務という法社会システムに
不満を感じている。そこに、作中一貫して正義の象徴として捉えられてきた向日葵――さちの巨大な向日葵の絵が
掲げられて、大衆は法社会システムへの不満を爆発させる、というシーン。
このシーンは『There is no such thing as society』というタイトルの言葉に象徴されています。