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素晴らしき日々〜不連続存在〜  (2010年6月15日 執筆)…72点
   

          「主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。 」

                               (ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』5.632)
 
※ 以下、本作のネタバレや重大な情報を含んだ感想・レビューになっているのでご注意ください。
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■ 概要
 前作『終ノ空』と同じテーマでありながら、全く違う方向性、描き方の作品。
 シナリオ云々を論じる以前の前作から、シナリオゲーになっていたのが何よりの驚き。
 それと同時にシナリオライターの暴走が大暴走に発展していたりしますw
 とはいえ、個人的にはやはりテーマの論理構造を作品中にいかに表現するかについて注目していたところ、
 この作品では予め解釈基準と出展を明示しているので解釈に困る部分があまりありませんでした。
 基本は前期ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(=論考)の世界の限界についての論理構造がベース
 ですが、比喩的・暗喩的に文学の引用もなされており物語に華を添えています。
 相変わらず出展に統一性は感じられませんが、これも世界観という事で気にしないほうがよさそうです。
 以下には感想と共に作品解釈の一例を独自解釈として書いておきます。

■ ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』における基本概念
 @世界と言語の関係性
  『世界』=『事実の総体』=『論理形式としての言語によって表現できる全ての可能性』である。
  世界と言語は表裏一体のものであり、世界の限界はすなわち言語の限界である。
  また世界と言語はアプリオリな関係ではない(どちらが先に存在したという性質ではない)。
  よって世界は言語によって明晰に語りうる。換言すれば論理形式で世界を表現することができる。
  なぜなら論理は世界の鏡像だからである。
  『語りえぬものについては沈黙せねばならない』とは、『語りえぬ』=『言語の外側』=『世界の外側』
  =『世界の限界を超えた形式』。世界は論理形式で表現可能であり言語として表現できるが、一方で
  論理形式、言語で表現できないものは当然語る事ができず、それを語った場合は誤謬につながる。
  そもそも問いうる問題は論理形式として原始的に解答が存在するし、問い得ない問題は論理形式ではない。
  哲学的問題として解決されていないものの多くは言語論理の誤りに基づく問題設定である。
  これを無理に語ることは誤謬を招くため、語りえぬものは沈黙せねばならない。
  また矛盾(無条件に偽)とトートロジー(無条件に真)は像ではない(何も述べない)。
 A世界と主体(私)の関係性
  『私』=『私の世界』。私の言語の限界は私の世界の限界である。私の思考しうる論理可能性が世界の
  限界を決定付ける。頭の良い人間と悪い人間で世界の限界に差があるという意味ではない。
  『思考』=『事実の論理的像』=『論理形式としての文』。文の正しい解釈はひとつしかない。
  『主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。』
  目が視野に属さないように、主体も世界に属さない。目が視野の限界であるように主体も世界の限界である。
  主体はそれ自体の存在を世界から推認する事ができない。視野から目の存在を推認する材料は何もない。
  私は私の世界であるが私という主体は世界に属さない。私の世界から私という主体は推認し得ないが、
  主体としての私は私の世界の限界である(≒観念上の思考の観測点として私の世界の限界にいる)。
 B哲学と科学の関係
  哲学=思考全般の浄化(明晰化)であり、哲学は思考可能な領域を確定する目的を持つ。(世界の限界の探求)
  『哲学』≠『自然科学』。数学は等式でありトートロジーなので数学の文は何の思考も表現していない。
  数学のあらゆる文は自明である。元からあるに過ぎない。
 C論考の意義
  論理哲学論考は理解されて、それが無意味であることを知ることで正しく世界を見る事が可能となる。
  論考により語りうる世界の限界が再確認され、語りえぬものについては沈黙せねばならない。

■ 登場人物(解釈上必要な限度で)
・音無彩名
  世界の論理法則。
  前期ウィトゲンシュタイン論考における論理則も包含する。
  ただしピュアな論考ではなく、ある程度他概念も包含しての論理則をあらわしている。
  事実としての物語上において普通の人間としての倫理的側面も備えているが、基本的には前期ウィトゲンシュタイン
  論考で示された諸原則そのものの存在。一番好きなキャラ。
・間宮卓司
  主体。世界の限界の外側にあるものを定義。語りえぬものを語った人。
  または事実としての物語における主人公。間宮卓司の中の『創造者』。
  今回もノンストップ救世主として前作以上に激しくオーバーランしてくれる。
  というよりもこの救世主を介してシナリオライターが存在感を主張しまくるという、いわばこの作品世界に現れた
  シナリオライターの美学である。
・水上由岐
  主体。論理空間における可能性的存在。
  または事実としての物語における主人公。間宮卓司の中の『調和者』。
  論理空間のどこにでも達することができる切符を持ち、世界(ざくろ)と対話を始める事で論考における世界の
  限界を定義付ける旅へと立つ。
・高島ざくろ
 主体と世界の対話においては世界少女。事実としての物語ではKY少女。
 『主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。』『私=私の世界』という関係性において、
 主体である水上由岐と対話する『存在としての私の世界』を演じる。
 スパイラルマタイ、アタマリバースの必殺技も健在。可能性的世界は彼女の必殺技によってのみ
 その扉が開かれる。
・ファー様
  国王。リルルちゃんのお父さん。
  シナリオライターのお戯れ(大暴走)が最高潮に達した時に登場するラスボス。
  オンナスキー、ヤツの弱点はギリギリスレスレの著作権じゃよ。
  …これをポンと出してくるとは、このシナリオライターとは趣味が合いそうだ。

■ シナリオ(解釈が必要な部分について)
@第1章“Down the Rabbit-Hole”
 (T)
 一番最初の世界との対話。この作品の基本的な論理構造の方向性を明確化しています。
 由岐(=主体)とざくろ(由岐の世界)が対話する事で世界の限界を定義付ける出発点となります。
 世界そのものの少女の正体は、世界の限界との関係では由岐(主体)の内なる世界ですが、
 論考による再確認の前(限界の定義前)においては事実の総体としての世界を意味します。
 つまり事実の総体としての世界が論考による操作を経て、初めて内なる世界と外なる世界の
 境界が定義される事となり、その過程こそ本作のテーマです。
 『終ノ空』は空と宇宙の境界、言語記述可能性の限界の象徴的表現ですが、空に浮かぶ巨大な眼
 として終ノ空が表現されているのは、論考の中に記載されている例示として目と視野の関係を指摘
 している事に由来します。
 (U)
 事実としての物語に突入。
 救世主様の大暴走を同じ肉体、異なる主体で観察する。伏線いっぱい。
 主体としての由岐は答えを得ることも無視することもできる存在であり、このシナリオでは
 由岐は哲学的思索の過程を経て終ノ空を見ようとします(可能性世界の限界の先を見る事)。
 その論理の浄化(明晰化)の過程で由岐は事実としての論理世界の姿を目にするようになり、
 若槻姉妹の姿も元ある姿として認識されるようになります。
 クライマックスは卓司が屋上からダイブして死んでしまうシーン。
 卓司は世界の限界を超える事(言語記述可能な限界を超えてその外にあるものを積極的に定義)
 により死亡(論理的解決の失敗)していますが、その傍らで論考の論理則である音無がその姿
 を見て、ほら、語りえぬものについて沈黙しなかったからあなたは誤った、と言わんばかりに
 クスクスと笑います。現に前期ウィトゲンシュタイン論考は哲学的諸問題の前提的な誤謬を
 指摘する事を目的としていました。
 事実としての物語では伏線シナリオでしたが、論理構造から観察すると論考に反して世界の限界を
 語った者を外部から見た姿を描いているシナリオとなります。

A第2章“It’s my own Invention”
 ノンストップ救世主アクション。
 シナリオライターのシナリオライターによるシナリオライターのためのアクション。
 おそらく前作の『終ノ空』をプレイした人間なら、このシナリオを待っていたのではないだろうか。
 素晴らしい大暴走です。ネット脳や年代を丸出しです。意味が分からないではなく意味すら知りたく
 なくなる程です。近づけばこのワールドに毒されてしまいます。人間が本能的に近づいてはならない
 そういう何かをバケツいっぱい白い壁にぶちまけたような気持ち悪さがあります。当然褒め言葉ですw
 この作品をやれば前作はいらないでしょう。この章こそ作品一番の山場ですw
 論理構造として見ると、世界の限界の外にあるものを語った卓司の主体的視点。
 前章と異なり世界の限界を超えて語る事に肯定的であり象徴的な描写を読み手に与えています。
 それが屋上にて希実香が柵を警棒で叩き壊し、そのたびに階数が上昇し世界の限界へと近づくシーン。
 破壊と再生の止揚的表現、言葉と意味と事実の相互関係の明晰化を経て、最終的に空(世界の限界)
 を超えて宇宙(言語記述可能な世界の外側)に至り『世界で最初の檻の外のダンス』を成し遂げます。
 この世界の限界を超えるという、いわば本作のテーマである論考とは相反する態度について、
 警棒を手に秤を天に掲げる希実香がメタファーとなってる模様。すなわち正義の女神は裁きの剣を
 手にし、掲げた秤で公平の理念を示していますが、ここでは論考に対する批判としての言語記述可能性
 の外側にある『旋律=音(意味)』が『神(世界=意味の総体)』と同等である事をもって、言葉の限界が
 世界の限界であるとする論考とは異なる結論を明示しています。
 ここでは意味の限界が世界の限界であると主張されています。
 さて、この結論について"正義の女神"がメタファーに使われた意味や、目隠しをしていなかったり
 する意味は、最後の結論にそのまま直結しているのかもしれません。
 この場合、ふたりは結局『終ノ空』には至っておらず、錯覚という事になりますし、それが悲劇的結末
 と照応関係を築いているように考えられます。
 個人的には作品の中で一番好きな部分です。

B第3章“Looking-glass Insects”
 とりあえず神自重w
 文字通り神に運命をおちょくられまくるざくろ、選択を誤らなければいじめに立ち向かうお話となる。
 ざくろ不幸編は論理構造云々よりも不幸と狂気の物語。
 前半で恋の予感に心ときめかせる少女を強調しておきながら、それを派手にぶち壊してしまうえげつなさ
 がもう酷すぎます…。
 文学と科学で立ち向かう編では、かっこいい希実香に会える。

C第4章“Jabberwocky”
D第5章“Which Dreamed It”
E第6章“JabberwockyII”
 物語のトリック的な部分が明かされていく。
 4章以降論理構造に関する表現があまりなくなってくるので、普通のシナリオゲーと変わらない印象。
 トリック的な部分に面白みを感じた一方で、物語としての面白さはあまり感じませんでした。
 隠されてきたトリックが明かされる展開に楽しみは感じたものの、現状に至るまでの経過という部分では
 秘匿性が読み手の展開に対する期待につながっていないと感じました。

F終ノ空U
 音無によって仮定の提示という形で論理的可能性が例示されていますが、これは読み手が好きな解釈を
 選べばいいという意味でも、いずれかの仮定が正しいという意味でもありません。
 論考の解釈論とは別次元の意味で「語りえぬものは――」という部分が妥当します。
 そもそもテーマを振り返ればこの帰結は当然ですが。

■ BGM
・Tractatus Logico-philosophicus
 論理哲学論考。音無テーマ曲。
 『素晴らしき日々』の論理構造部分のテーマ曲という感じ。
 一番好きな曲。

■ まとめ
 前作『終ノ空』のレビューを書いたのが確か自分が19か20ぐらいの時だったか…。
 論考は高校ぐらいの時に永井先生の本で初めて読んでから何冊か読み重ねたテーマだったので特に楽しめました。
 元々、絵やキャラのファッション、テーマと全てが自分の嗜好性に合っていたので、それだけでも楽しめる予感が
 あったのですが、作品の論理構造もシナリオの整合性も完成度が高く、前作の悪い意味でのカオスさが払拭され
 ていて、まさにシナリオライターの本領発揮という感じがしました。
 良い意味(?)でのカオスさには磨きがかかる一方で、ネットスラングやネットコミュニティ特有の集団ヒステリー
 的な感情論(短絡的な思考)が表に出すぎているので、何か作品内の主張や文章に社会的成熟性が欠けている
 印象が強かったです。
 とにかく見所の多い作品で論理構造、トリック、シナリオ…と色々ありますが、やはり最大の見せ場と言えば、
 シナリオライターの大暴走だろwという結論に達しそうです。
 ですが、これだけ見所が多い割りに絶対他人には…特に女性にはお勧めできないです…。

 以上


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