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終ノ空  (2000年1月9日 執筆)



 見どころ: テキストライターの暴走


 ノンストップ教祖アクション。
 世界の終焉系の雰囲気を色濃く漂わせたシナリオ紹介に魅せられて、
 これは、あの「MOON.」の再来か!?と期待を胸いっぱいに発売日当日
 に買ってしまったゲーム。
 食費を削ってまで買ったならばこのゲームで心の空腹を満たすまでだ、
 と声高に話していたことを、今は昔、春の夜の夢物語として記憶の
 奥深くで抑圧しつづけた事を、今でも鮮明に覚えている。



■ どんなゲームか?

  世界の終末。ノストラダムスの予言系。
 カテゴリーとして分類するのならホラー系。
 怖いのはホラー系がストーリーや演出だけにとどまらないところだろう。
 シナリオライターの自己意識が極度に肥大化するとどうなるかを見せてくれますw


■ ストーリーは?

  クラスメートの自殺を皮切りに、学校中に終末論が蔓延していく。
 徐々に不安に蝕まれていく学校中の生徒と、その不安の中現れた
 一人の生徒「卓司」。
 卓司は終末の中で教祖として崇められていき、彼の導きによって全て
 が狂っていく。
  そんな中、主人公「水上行人」とその幼馴染「若槻琴美」、水上行人
 の友人「音無彩名」だけが、狂っていく世界に異常を感じていた。


■ まず概要を


  もう、凄いんです(- -;

   はしって走って突っ走って行き着くところまで逝ってしまってます。
 インパクトはかなりデカめです。


 本作は4編+1からなり、それぞれ「水上行人(主人公)編」「若槻琴美(幼馴染)編」
 「ざくろ(事の発端の自殺者)編」「卓司(教祖)編」、さらに「それ以降」となっています。

   「水上行人(主人公)編」「若槻琴美(幼馴染)編」はストーリー全体からみて比較的、まともに
 進行していきます。「水上行人(主人公)編」では事の顛末が普通に描かれています。

   「若槻琴美(幼馴染)編」では違った視点で書かれていますが、なまじ恋愛要素が入ってしまって
 いるだけに、普通のゲームに見えかねないのが危険です。

   本領発揮は「ざくろ(事の発端の自殺者)編」からでしょう。来ました。「スパイラルマタイ」です。
 前世の記憶を呼び戻す「アタマリバース」と共に本章において二大スペクタクルを演出します。
 自分が世界に命を差し出すことによって世界の危機を救う儀式であり、一言でいうなら飛び降り自殺です。

  そしてついに「卓司(教祖)編」で爆発です。ストーリー、キャラクター以上にテキストライターが存在感を
 増してきます。もはやストーリーなど関係ありません。読み手と書き手には、熱海温泉と苗場スキー場程の
 温度差があります。教祖様の幻覚が克明に描写されており、壁に書いた魔法少女の落書きと会話を繰り返し
 彼女の決断に従いつづけ、信者に言語明瞭意味不明な命令を下していく場面は圧巻の一言です。



■ 哲学的?


   最後に「それ以降」で観念的なことが語られますが、これが蛇足でした。(全体の哲学的表現を通しても)
 娯楽を目的に成形を施された(すなわち意図的に曲解された)解釈であるため、本来の解釈の持つ意味と乖離
 するのは必然です。ところが、それに伴って独自の解釈を詳細に記述することが必須であるにも関わらず、
 言及されていない、最悪の場合一般的な解釈を前提としてしまっているがために、難解な言い回しや表現が
 並んでいるだけ、とプレイヤーに見えてしまいます。このあたりがストーリーの筋に不透明感を与えている
 原因ではないでしょうか。自分はウィトゲンシュタインに関する解釈は永井先生の著書をベースに狭い範囲で
 少し理解しているのですが、どう考えても本作は解釈の美味しい部分だけつまんで、それを曲解して祭り上げ
 ているだけにしか見えないのですが…。私的には形而上学や論理学関係の数学をただの観念論、ファンタジー
 にしてしまうところには、ナンセンスさを覚えずにいられないのですが…。
 ストーリーに関して個人的な解釈を考えてみます。


■ 強引に構成を抽出した場合
 

  数ある材料を使うことをメインに独自に構成を削りだしてみます。


           "語りえぬものについては、沈黙しなければならない"
                             (ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)


   作中冒頭で出てくる有名な言葉です。本作においてこの言葉がどういった役割を果たすかについて推測
 すると、おそらく字面をなぞり論考の解釈一切を無視して「結論できない」という意味で娯楽用に意図的な
 曲解を施したと思われます。市販の本等に拠った一般的な解釈を前提とした場合については後述します。
   次に何に対して「語りえぬもの」と結論したのかについて・・ これは作中何度も水上行人が赤子の首
 を締めようとしながら「人の生は(死を内包するのに)祝福されるのだろうか」とひたすら悩みます。
 学校中が終末論を信じ込み、生を唾棄する姿勢に至る過程からもこれが主題であると推測できます。その
 根源にあるものは矛盾する存在への問いかけであり、これも主題と共に投げかけられる問題です。
   そしてに登場人物各々のスタンスはどうだったか。琴美が生の祝福に肯定的であるのに対極する形で、
 卓司はこれに否定的な立場をとります。また水上行人は思考の現在点として、音無彩名は「1であり全てである」
 存在、つまりは問題に対しての究極の答えの存在として機能します。
   最後に思考の現在点である水上行人はどこに行き着いたか。何度も生まれたばかりの赤子を手にかけようと
 しては思いとどまり、最終的には殺しません。琴美サイドに立ったのですね。


   最後には琴美が、
 
 「つれだつ友なる二羽の鷲は、同一の木を抱けり。その一羽は甘き菩提樹の実を食らい、
  他の一羽は食らわずして注視す。」
 (出典:リグ・ヴェーダ:古代インド ※菩提樹の実を食らう様は堕落を体現する。)


 と水上行人に言い放ちます。つまり、あんたは堕落(存在への問いかけ)しませんでしたよ、
 という結論で物語の終焉を迎えます。付け加えると琴美と逆の立場の卓也は、「堕落せよ〜没落せよ〜」
 とひたすら菩提樹の実(存在本質の探求)を貪り続けたことになります。

   以上の構成を、閉鎖空間で繰り広げられる集団狂気の過程においてあらわしたと考えました。
 

   と、勝手に構成を削りだしたものの、ストーリーの進展と引用の間にリンクしづらいものがあります。
 説明不足に加えて、引用に統一性がないのです。ウィトゲンシュタインやカントを引用しておきながら、
 古代インドの法典、新約聖書からも引っ張って来ており、それぞれをストーリーの中で同価値の概念として
 テキスト上扱っているために、構成から読み取れる理解の筋が木に竹を接いだようになっています。
 加えて、生と死の関係が本作の表現においてトレードオフになっていないために、説得力に乏しい展開に
 なっているところも問題です。



■ 一般的な解釈に基づいた場合


  基本的な概念にあわせたストーリーの肉付けをしてみます。 


           "おおよそ語りうるものは明晰に語られ、
                     語りえぬものについては、沈黙しなければならない"


   結論としてのこの一文の文字をなぞるだけでは、それなりに意味不明です。論理哲学論考における
 前期ウィトゲンシュタインが目指したものは、言語の可能性の条件を明確にすることです。
 言語の可能性の条件とは、言語記述が可能である範囲条件であり、どういった場合にのみ言語記述が
 可能かについての条件です。つまり「語りえぬもの」とは言語記述が可能ではないものと換言できます。

   カントについても引用されており、これは前期ウィトゲンシュタインとの対比である事が分かります。
 前期ウィトゲンシュタインが言語の限界が世界の限界であるとして「沈黙を以って」結論を示した
 のに対して、カントは「純粋理性批判」で世界の限界を設定、「実践理性批判」ではメタ言語、ひいては
 世界の限界の外にあるものを定義しています。ただし、この対照関係を示唆する伏線等は明確ではなく、
 前期ウィトゲンシュタインの解釈の中でゲーム上、注視すべき点へとプレイヤーの視点を誘導する役割を
 担ったと考えます。すなわち、ここで注視すべきは"世界の限界は沈黙しなければならない"です。

   では、この注視すべきテーマはストーリー上どのように表現されているか?
 肯定的な立場として当然、「水上行人」が挙げられ、否定的な立場の代表格は「卓司」です。また、後者の立場
 には「ざくろ」も含まれると考えます。つまり、双方の立場をストーリー上決定付けている要因は、世界の終末
 を信じているかどうかです。そして、世界の終末を乱暴に"世界の限界の外"と設定すると、世界の限界の外に
 あるものを語ったのは卓司(論考における論理形式を語ってしまった*1)とざくろで、世界の限界の外に関して
 沈黙したのは水上行人である、という構図を浮かび上がらせる事ができます。ストーリー上の結果は見ての
 とおりですが、この構図で見た場合、決してテキストライターは世界の限界を語ったカントの立場に否定的
 だとは思えません。飽くまで序盤の視点対比の表現としてのみ使った感があります。
   さて、世界の終末(限界)を語った卓司とその信者、あと例の必殺技で旅立ったざくろと違って生き残った
 水上行人。終ノ空(世界の限界の外)を語らなかった彼は世界の限界を自己の世界に見出します。それが
 赤子を絞め殺さないシーンで表現されていると考えます。赤子の誕生を生と死の二律背反が共存する、
 言語記述が可能でない語りえないものとして表現し、それを殺さない(限界に挑戦しない)事で論理哲学論考
 の解釈を体現し、物語は幕を閉じます。


   上記の解釈では言うまでも無く、ストーリーの進行の細かいところで全く整合がとれていないうえ、いくつか
 のイベントを隅に追いやってしまっています。どうにも完璧にバランスのとれた解釈は難しそうです。ただ、解釈
 に幾分かのバランスを付与したとしても、読み手にメッセージを伝える努力を全くしていないため、結局は作り手
 の中で永遠に解釈が反芻され続けるだけになります。伏線や表現についても、ただ引用をつけただけ、手法を
 似せただけ(特に水上行人の回想)に留まっており、作り手のスタンスがその中に含まれていないために引用や
 手法に似せる事だけに満足している感があり、作り手独自の解釈や表現がまるで見えてきません。




■ 解釈がなくても


   哲学ネタを完全に除去して、カルト集団が完成する過程のみに焦点を絞った方が、本作の
 良さが前面に出てきたと思います。あの毒々しいまでも引き込まれる雰囲気造りはかなり手の
 込んだもので、それだけでゲームとしての面白さを備えていると言える程、見事なものです。
 特に卓司偏での混乱が描かれている中に突如として、不安の拠り所となっている終末に1つの
 答えを与えて、それに追従していく有様は一種異様な雰囲気の中にも自然な流れが貫かれて
 おり、読み手としては普通に読んでいたつもりが前傾姿勢になってマウスをカチカチやってい
 た、なんてことになっていたりします。



■ ベストキャラ

    卓司

   ゲロ卓こと卓司。教祖デビュー前はただのいじめられっこだった彼が覚醒してカリスマ的
 (カリスマの本来の意味とは乖離するが)存在となる過程はなかなか面白い!
 教祖デビュー後は完璧に瞳孔が開ききって、その態度は自信に満ち溢れています。
 なんと言ってもテキストライターの魂が乗り移ったような熱狂感は素晴らしいの一言に尽きます。



■ 名言

    「てめぇらの血の色は何色じゃぁぁぁぁぁぁ!!」

   (水上行人:琴美を助けに単身殴りこみの際)

   シリアスなシーンながらも笑ってしまった一言。
 せめて「ことみーっ!!」とか「てめぇらぁぁぁぁ!!!!」など感情そのままの台詞なら
 素通りできたところですが、この台詞で水上行人の本質を多少垣間見る事ができたとか・・




■ まとめ

   表現については後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム(九九の学生の例等)からの
 引用やヘーゲルの「論理の学」における近代科学観、卓司の教義についてはストロースの
 「構造人類学」における野生への回帰願望と、テキストライターの教養の広さを窺い知る事
 ができます。ただ、材料は揃えたもののいずれも偏側面的な扱われ方であり、一部分を
 全体に一般化してしまっているところには都合の良さを感じました。再度書きますが、
 これらの哲学的な表現を全て無くして、さらには、"終ノ空"に独自の概念を持たせた上で、
 それを主軸に自己の解釈を展開して欲しかった所です。
   とはいえ、このゲームの良さはひたすら突っ走っているところと異様な雰囲気にあり、
 それを楽しむ分には十分に面白みを備えた作品であると思いました。




 以上

【戻る】





















脚注
 *1 ウィトゲンシュタインにとって論理形式はまさに先験的(経験を介在しない)なものであって語りえぬものの1つに数えている。
   次の論理式を例に採ると、
   
       ∀(x)F(x) = F(a)ΛF(b)ΛF(c)ΛF(d)... 
   
     つまり、全ての"x"に関して"x"は"F"である。
     すなわち、"F(x)"は"F(a)であり、F(b)であり、F(c)であり、F(d)であり、..."

     日本語の文章で例にすると、

       「鳥(という母集団に含まれる要素)は、ニワトリであり、スズメであり、ワシであり、ウミネコであり、...」

   ここにおける"..."は無限でありうる。有限個数で真理表によって全てMECE(漏れなくダブらず全てを網羅)に
   まとめる事ができるなら"語りうるもの"足りえるが、要素の数に限りがございません状態では量化を含む命題
   として"語りえる"ことができない。これはウィトゲンシュタインが、

     ・命題化できるのは記号が対象の代わりを完全に務める場合のみである。
     ・よって論理定項(Λ:かつ ∨:または 等)は何物の代わりでもない。
                         (論理哲学論考:4-0312)

   と著している事から、論理形式は語りえぬものであると分かる。
   (※現在では量化については決定的な証明手段が無い事が知られている。ただ、論考においてウィトゲン
     シュタインはこのような問題を本質的な事とは捉えなかった(永井均 『ウィトゲンシュタイン入門』より)。)

     作中では卓司が世界について「なぜあるのか?」を問いかけ、水上行人は「どうするか?」
   を問題にしている。その暗喩として「食らう」「注視する」が使われている。(何故この例え
   を使ったかは全くの謎であるが・・)特にここで卓司が論理形式を語ったというのは、彼の教義
   において一貫して細分化と回帰、存在の否定(弁証法的な否定によって何かの存在が証明さ
   れるとかではなく単なるヤケクソレベルで)が含まれており、これが排中立(真か偽かのみ)を基本
   として際限なく繰り返されるからである。

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