明日よりも未来をこの手に
 










 7月…短い梅雨も明け、街の空気もそろそろ夏本番に変わろうとしている。
 ガラスの向こうには家路に着く半袖シャツのサラリーマン。

     「生ビールとスルメ、チョコレートパフェです。ご注文は以上ですか?」
     「ああ…ありがとう。それじゃ…乾杯だ。」

 飲み屋の一席――
 ジョッキといくつかの小皿を置くと店員は慌しく去っていく。
 週末の夜だ、忙しいのだろう。俺の座っている位置から見る限り空席はほとんど見当たらない。
 俺は片手でジョッキを持ち上げるとそのまま半分ぐらい傾けた。

     「〜っ、ビールの一口目は最高だな。」
     「………」

 口の中に残る苦味が消えぬうちにスルメをひとつ摘んで口に放り込む。
 まわりでは仕事帰りのサラリーマンたちも同じようにジョッキを手に料理をつついていた。
 店内に充満しているのは週末特有の開放的な雰囲気――

     「俺は時々思うんだ。幸せっていうのはどこか遠くにある目標だったり、手の届く小さな贅沢じゃない。
      自分の状況を不幸だと思わない――そんな心構えだと思っている。」
     「………」

 まるでグラスに語りかけているようだ。
 それでも俺は気にせずに言葉を続ける事にした。

     「どんな悩みや事故があったのか俺には分からない。月並みな事を言えば誰にだって悩みはある。
      ただそれを隠すのが上手いヤツは能天気と言われ、下手なヤツはちょっと近寄りがたい雰囲気だと決め付けられる。」
     「………」
     「だがな、普段悩みを隠すのが上手いヤツが悩みを隠せなくなったとき、お前を知っているヤツはみんな心配しちまうのさ。」
     「………」
     「俺はおまえの言葉、好きだぜ? 何て言ったっけ? あなたが幸せなら私も幸せ。幸せスパイス!それだ!」
     「………幸せスパイラル。」

 俯いたままようやく口を開く。
 
     「小毬!そう、幸せスパイラル。俺も寝てる時よくある。昔おまえが口癖のように言ってただろ?」
     「恭介くん…それ、学園の時の話だよ…。」

 小毬は顔をゆっくり上げると憔悴しきった表情で俺の目を覗き込む。
 髪は少しだけ伸びたか…白のロングニットにデニムの短パンと健康そうな恰好ではある。
 だが顔は土気色になり、目はかつての子供らしい輝きを失っている。
 あまりに変わり果てた表情に俺は一瞬息を呑んだ。

     「あはは…、本当に恭介くんだね。学園の頃と全然変わってないよ…。」
     「そうさ、俺は棗恭介。いつ何時も俺は俺であり俺であり続ける。」
     「見た目もそんなに変わってないし、中身なんてまるで変わってない。」
     「いいものは変わらない。それはフォード社が証明してくれたさ。」

 おまえは変わったな――その言葉をスルメと一緒に飲み込んで俺は微笑む。
 それを見て疲れきった小毬の表情に少しだけ笑顔が戻った。

     「チョコレートパフェ食べろよ。甘いものは嫌いじゃないだろ?」
     「…うん、大好き。これだけはやめられない。」

 長いスプーンで端っこの生クリームをすくい上げると口に運ぶ。
 すると途端に小毬の表情に輝きが満ち溢れる。

     「キタキタキターッ!!( ゚Д゚)」
     「うおっ!? どうしたんだ小毬!?」

 スプーンを握り締め、両手をダンダンッと何度かテーブルに叩きつけるとパァと笑顔になる。
 唖然とする俺を前にして小毬は俺の知っているかつての小毬に変身した。

     「うふふ、甘いものはね、女の子を幸せにするんだよ〜」
     「………」
     「どうしたの、恭介くん? チョコレートパフェ、一口食べる?」
     「あ、ああ…」

 何が起こったのかよく分からないが、とりあえず小毬がスプーンに乗っけたチョコパフェを一口で頬張る。

     「うっふふ〜☆ 小毬ちゃんと間接キス〜」
     「い、いや、それよりも小毬――」
     「なぁに? 小毬ちゃんと直接キスがしたくなっちゃった?チョコレートよりも甘いよ?」


     「そうじゃなくて…おまえ、2年間も行方くらまして、何してたんだ?」











明日よりも未来をこの手に











     「………」

 小毬のテンションは地に落ちた。
 ゴチンという音と共にテーブルに突っ伏すとそのまま動かなくなる。
 俺はスルメの足で小毬のほっぺたを突きながらフッとため息をつく。

 ――俺が学園を去って1年後、小毬たちも全員学園を卒業した。
 俺に夢があったように、他のヤツにも当然、夢や目標があった。
 だから今までずっと一緒にやってきたリトルバスターズもそこでバラバラになったのだ。
 大学に行く者、就職する者、海外に出る者。
 だけど離れ離れになったとしても俺たちはお互いに連絡を取り合って、たまには会って飲んだりもした。

 だが…ある時から、小毬だけが連絡が取れなくなってしまったのだ。
 唐突にプッツリと連絡が途絶えた。
 それから半年ほど過ぎてから、鈴は焦った。理樹は心配した。俺も探した。
 さらに1年半経っても小毬を見つけることは出来なかった。

 ――今日、駅前でバッタリと会うまでは。

     「そうだな。まずは俺の近況報告からしようか。」
     「………」

 スルメで小毬の頬をペチペチするのをやめて、俺はジョッキを空にする。

     「学園を卒業して、俺が就職したのは知っているな?」
     「……うん。」

 進学校において俺は異端とも思われる就職を目指した。
 理由は簡単だ。大学で学びたいものはなかったし、殊更学歴などにこだわりもしない。
 それに俺が本当に学びたいものは大学ではなく社会にあると考えていたからだ。
 いち早く社会に出て俺は自分の道を歩き出したかった――その時はそう考えていた。

     「あれな…1年前に辞めた。」
     「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!?」

 テーブルからガバッと起き上がり目を丸くする小毬。

     「蘇ったか…。」
     「なななな、な、なんで〜っ!?」

 就職活動をした俺は現実というものをイヤほど思い知った。
 まず一番最初は応募の段階だった。
 俺が職場として憧れ、目標にしていた会社は要件として大卒以上である事を挙げていたのだ。
 大学全入時代だ。会社に特別の悪意は無いのだろうが俺はその時点で夢を絶たれてしまった。
 上場しているような大企業は全て大卒が要件。
 程なく、ほとんどの出版社に俺は応募すらできない現実に打ちのめされてしまったのだ。

 次に俺が目を付けたのは外資系の出版社だ。
 俺のやりたい仕事、職種も募集しており、見たところ要件に大卒以上とは明記されていない。
 早速、応募書類を送った。すると…連絡が来たのだ。書類選考に合格した事と面接の日程について!
 内心、狂喜乱舞しながら俺は慣れないスーツで面接会場に向かった。
 形式は集団面接。5人いて俺は5番目に答える順番のようだった。
 そして面接が始まって俺は愕然とした。
 ほぼ全ての人間が大卒高学歴。しかも俺を除く誰もがその仕事や職種に直結するようなスキル、実務経験を備えていたのだ。
 それもその業界で働くためだけに、何年も前から準備を重ね努力する事を怠らなかった。
 就職の1年前になってようやく準備を始めた人間なんてそこには一人もいない。
 面接とはそれらのスキルや経験がどれだけ積み上げられたかを確認する場だった。
 当然俺は何も答えることが出来なかった。

     「俺だって最初から数年で辞めるつもりで就職したわけじゃない。」
     「私もそう思うよ〜。だから驚いたんだってば!」
     「そう…前の会社だって苦労して入ったさ。」

 学歴と市場価値の高いスキル、実務経験――
 競争で勝つには他人が持っていない目に見える何かがなければならない。
 だが、いずれも無い俺は早々に敗北せざるを得なかった。特に人気のある職種は応募者数も多い。
 飛び抜けた人材はさておき、スキルも実務経験もない集団にあってその中で選考に残るにはどうしても学歴がいるのだ。

 『なんで社会で役に立たない数学や英語なんて勉強しなきゃならないの?』

 学園で誰かが言った言葉を思い出す。
 俺はこの言葉の間抜けさを、社会の壁にぶつかって初めて理解できたのだ。
 その科目に意味があるかないかの問題ではない――できない人間は競争に敗北するのだ。
 行きたい会社に行けない。そこでやりたい事ができない。低収入で生きなければならない。人が嫌がる仕事をせねばならない。
 そして、社会状況が悪ければ経済的弱者として真っ先に死ぬ。発展途上国を見ればそんな事は一目瞭然だった。
 学歴は貧困から脱出する手段であり、程度は違えど日本でもその尺度のあり方は変わらない。

     「恭介くんが就職した会社って出版社だったっけ?」
     「…その出版社の下請けに当たる印刷会社だ。」

 最終的に俺が競争に勝つことができた市場は下請けの印刷会社だった。
 当初の目標とは大幅にずれてしまったが、それでも俺は満足していた。
 理由は2つある。まず自分の就職市場における価値がゼロに近かった事。市場価値がない状態で就職できた事自体が
 運が良かった。次にこの印刷会社でもキャリアを積めばやがては出版社に転職できるスキルや専門性を育てる事が可能な事。
 最初から自分のしたい仕事ができなくても、後にそれにつながる事なら何でもやろうと思った。
 ――そう、好きな事をやるだけが人生じゃない。

 だが俺は1年前、会社を辞めた。
 原因は上司だった。別に人間関係に失敗したとか、反抗期だったとかそういう訳じゃない。
 確かに人間的に尊敬できる上司じゃなかった上、何事にも精神論が先行するような典型的な古き悪しき日本人だった。
 俺の担当する仕事内容はその上司の補佐であり、その上司の仕事は会計や帳簿などの単調な事務作業だった。
 それでも俺はいつか、出版社で必要とされるスキルに関係する仕事に触れられると思い、黙々と続けてきた。
 ある日、上司が言った。
 『棗君はがんばってるね〜。あと15年俺の元でがんばったらこの仕事を任せられるよ。』

 その夜、俺は人生で初めての辞表を書いた。

     「それから恭介くんは今、どこで働いてるの?」
     「………………………………………ムショクだ。」
     「………え?よく聞こえないよ〜」
     「………………………………………だから無職だ!」
     「………へっ?」
     「だから、無職だって! 無職!失業!アイアムフリー!何度も言わせるなッ」
     「あ〜。」
     「やっと理解したか…」
     「………」
     「………」
     「えええぇぇぇーーーーーーーーっ!!」
     「って今理解したのかよっ!?」
     「だって恭介くん、無職さんだよ〜っ!?なんで無職?どうして無職?黒スーツなんか着ちゃってちょっとイケてる無職?」
     「だから何度も無職、無職言うなッ!」
     「私、若い無職さんなんて初めて見た〜。ね、恭介くん、サインちょうだい?最後にカッコ無職って書いてね。
     「いじめてるのか!?小毬、おまえ俺をいじめてるだろッ!?」
     「じょ、冗談だよ〜。私が無職さんをいじめたりするわけないよ〜。でも何だかすがすがしいよね!」
     「こう何度も言われてみれば、哀しくなるぐらいすがすがしいな。」
     「だけど、何で1年も無職なの?」
     「そ…それは、就職活動してもいい仕事に巡り合えなかったというか、将来性がない仕事ばっかりだったというか――
      とにかく…! 今度はお前の番だぞ小毬。何があったのか全部話せっ!」

 俺は手をワキワキさせながら小毬を睨み付ける。
 すると小毬は表情を一変させて深い深いため息をついた。

     「………ハァ」
     「どうした?」
     「…恭介くん。幸せスパイラルはね――破綻したの。」

          :
          :





     「ほら!これなんかものすごくかわいくて見てるだけで欲しくなっちゃいそう!」
     「光るイルカの話はもういい。それより今おまえはどこで何をやってるのだ?」

 テーブルに何やら怪しい絵を置いて必死にPRしている小毬。
 ため息をつきながら俺は今まで聞いた話を頭の中でまとめる――

 学園卒業後、小毬は都心の私立大学に通い始めた。
 元々人懐っこい性格だった小毬にはすぐ友達もでき、充実したキャンパスライフがスタートした。
 そんなある日――今から2年程前になるが、小毬がひとりで繁華街に出かけたときに、キャッチセールスに捕まったらしい。
 浄水器なんていらないと言ったらしいが、ノルマをこなさないと家で待っている子供を養ってやれないという。
 その典型的な泣き落としに、小毬のムダな親切心が一気に噴出し、その場で貯金を下ろしていくつも浄水器を買ったのだ。
 やがて十数歩と歩かないうちに今度は別のキャッチセールスに捕まった――絵の展覧即売だ。
 ほぼ同じような手口で小毬は契約書にサインしてしまった。が、貯金は全て先の浄水器に変わっている。

     「と、いうワケで〜恭介くんはこの絵を買えば幸せになれると思うのです。恭介くんは絵を手に入れて幸せ。
      私もそんな恭介くんを見てしあわせ〜。ネオ幸せスパイラルなのです〜☆」
     「………」

 手でこめかみの辺りを押さえながら今度は俺が深い深いため息をつく。
 …小毬が今何をしているのか聞くまでもなさそうだったからだ。

     「ちなみに小毬。その絵、いくらで買った?」
     「………10万円」
     「ぶっ!?」

     「…12回分割払いで120万円。」
     「げはっ!?」

     「…それを合計二枚。」
     「ちょギッ!!??」

 予想の斜め下を行く深さで人生を転げ落ちていた!

     「もうこまりちゃんは困りマックスです…!」
     「お…おまえなぁ――」
     「でも弁護士さんに相談してみたら、240万円から60万円まで債務は減ったんだよ。これならまだ頑張れるかなって――」
     「クーリングオフとかはできなかったのかよ…」

 ――きっと小毬にとって都心は異境だったのだろう。
 俺たちがいた街が善意で溢れていたのと同じように、ここでも人はみな優しいと信じていたのだろう。
 困っている人には手を差し伸べるのが当然。特に小毬にとって見て見ぬ振りなどできるはずもない。
 だからそんな小毬の親切は他の悪意にとっては恰好の的になったのだ。
 この世界は善意だけじゃない――そんな当たり前の事に気付いたときにはもう遅かったのだ。
 俺はスルメをふたつに裂きながら、さらに残酷な現実を小毬に打ち明ける。

     「一応知らせておくが、その絵と全く同じものが東○ハンズで900円で売っていたぞ。」
     「…!!( ゚Д゚) 」
     「分かったか?小毬、おまえは――」
     「恭介くん、この絵がそんなに安いなんて絶対に騙されてるよ!」
     「騙されてるのはお前の方だよっ!!」
     「う…うぅ…この絵がそんなに安いなんて…。信じたのにぃ〜だってあのお姉さん、"信ずるものは救われる"って言ってたよ?」
     「みごと、足元をすくわれたな。」
     「うぅ………誰が上手い事言えと――」
     「まぁ、元気出せ。ほら、甘いものは人を笑顔にするんだろ?」
     「………」

 屍と化した小毬の前に新しく注文したイチゴサンデーを持っていってみる。

 ――ダンッ!ダンッ!ダンッ!

     「キタキタキターッ!!( ゚Д゚)」
     「おまえ、さりげなく復活早いよな!?」
     「あむ…はぁ〜。私、もう笑えないよ…」
     「確かにこの状況は笑えないな。なるほど、それでおまえは携帯電話も解約してバイトに明け暮れる毎日だったのか…」

 小毬は黙って頷く。
 借金の総額は60万円。消費者金融の複利を考えれば大学を休んでバイトを続けるしかなかったのだろう。

     「それで今はどこでバイトしているんだ?」
     「…いっぱい。昼間は幼稚園、夕方からはファミレス、夜はビアガーデン…。」
     「! おいおい、それじゃおまえ、全然休む間がないじゃないか。」
     「ううん、しばらくはお休みだから大丈夫だよ。」
     「そうか…。休みはいつまでなんだ?」
     「………この先ずっと。うん、こまりちゃんはとっても可愛いから365連休。やったねっ」
     「やったねっ、じゃねーだろっ」

 それはお暇を出されたという事…平たく言えばクビだ。

     「いったい何やらかしたんだ?」
     「ファミレスでね、お皿を1枚洗うと不思議な事に2枚のお皿が割れるんだよ?ポケットを叩けばお皿が二つ?不思議だね〜」
     「おまえが不思議だよッ!」
     「それからビアガーデンでね、ジョッキの生ビールを運んでいると、なんと…全部中身がなくなってるの!」
     「ま、まさか小毬。おまえ飲んだのか?」
     「ううん、ジョッキも割れちゃってたし飲んだのは私じゃなくて地面さんだったみたい。ドンマイ、私♪」
     「それ落としたんだよ!」
     「そんなこんなでこまりちゃんは今、とっても沈んでいるのです…はぁ……」

 再びテーブルに突っ伏すと微動だにしなくなる。
 やる気はあるがそれ以上に天然ボケ体質が出たというか、そもそも慎重な作業に向いていないというか…。
 とりあえず頑張っているのが分かっているだけに不憫にもなってくるのだ。

     「そら、元気出せ。甘いものは人を笑顔にするんだろ?」
     「………」

 さらに新しく注文したバニラアイスを小毬の目の前に突き出してみる。

 ――ダンッ!ダンッ!ダンッ!

     「キタキタキターッ!!( ゚Д゚)」
     「おまえ、とりあえず甘いものがあれば死んでても生き返りそうだな…」
     「はむ…そんな事言う人嫌いです…う〜ん、今日もおいしいね!」
     「ん?…幼稚園のバイトはどうなったんだ? やっぱり園児のおやつに手を出してクビになったか?」
     「そんな事しませんっ。幼稚園のお手伝いはちゃんと続いてるよ。」
     「ま、流石にそうだよな。おまえに最も合っていそうな仕事だからな。」

     「そう言ってくれて嬉しいよ――でもさ、私、これからどうなるんだろ…」

 ――私、これからどうなるんだろ…

 その言葉に小毬の心境がすべて現れているような気がした。
 やる事は分かっている。でも、そんな義務を果たす毎日がこれから先も続いて、その先に何があるのだろうか。
 自分が望んだような像がそこにはなくて、ただ漠然と明るかったはずの未来がそんなに明るいものじゃないと分かった。

 不意に言葉が途切れて俺たちの耳に喧騒が戻ってくる。
 あの事故から奇跡的に生還し、それからいつも以上に騒がしくて楽しい日常を過ごしてきたリトルバスターズ。
 形を変えてそんな "今" がこれからもずっと続くと思っていた。

 未来とは今日よりいい明日。

 無条件にもたらされてきた未来は学園の卒業を境に消えてしまったのだ。
 寝ていても明日はくる。だけど未来はこない。
 こんな時、一番欲しいのは何だろうか。俺は静かに口を開く。

     「なぁ小毬。他の連中の声、聞いてみたくないか?」
     「………うん、聞きたいな。みんな、どうしてるんだろ…」

 消えそうなぐらい小さな声を聞き届けて、俺は携帯電話を取り出す。

          :
          :



     『あ、恭介? どうしたの、今何してるのさ?』
     「理樹。聞いて驚け、小毬を捕獲したぞ。」
     『え、え、えーーーーーっ!? ホントに? 小毬さん、生きてたの!?』
     「ああ、本当さ。今声を聞かせてやる。そら――」

 俺が手渡した携帯電話を恐る恐る受け取る小毬。

     「あの、理樹くん。久しぶりだね…」
     『わっ! 本当だ、ホントに小毬さんだ!良かった…、元気な声だ…』
     「うん。心配かけてごめんね。ちょっと色々あってね…あはは…」
     『そっか…何があったかは恭介にでも聞いておくよ。ただ…分からないけど元気出してね。』
     「理樹くんは今は何してるの? まだ大学生だよね?」
     『うん、工学部だよ。クドも同じ学部だからよく会うよ。』
     「クーちゃん、宇宙飛行士目指してるんだよね。」
     『宇宙飛行士になるには自然科学系の大学を出て3年働く必要があるからね。だけどクドの場合、問題は英語だからね。』
     「でもずっと前に受けた英語能力試験で85点も取ったんだよね? 私、お祝いのメール送っちゃったよ〜」
     『あ…うん。85点だったね、あはは…。でも今は145点まで点数が上がったよ。』
     「…え? 100点満点じゃなかったの?」
     『ううん、990点満点のテスト。』
     「………」
     『とにかく、小毬さんの声が聞けて嬉しかったよ。あ、鈴はすごく心配していたから連絡してあげなよ。』
     「そうだね、また今度会ってゆっくり話そうね。」
     『うん。それじゃこれから学部の友達と打ち上げあるから、またね!』

     「………」

 切れた携帯電話を感慨深そうに眺める。
 今では理樹にも大学に友達がいて、それぞれの時間を共有している。
 ギュッと手の中に握り締めた携帯電話――実感したのだろう。確かに時間は過ぎ去っているんだ。
 俺は俯く小毬にしばらく何も声をかける事ができず呆然としていた。

     「…理樹くん、それにクーちゃんも充実してそうだね。」
     「きっとそう感じているはずさ。」

 俺は小毬の頭を撫でてやりながらしんみりと呟いた。

 ――理樹は学園を卒業後都内の私立大学に入学した。
 勉強も人並みにはできたので、それなりの大学に入学し、とりあえず特徴の無い大学生になっていた。
 なんとなく大学に通い、テスト前には焦ってノートをコピーして、それが終われば仲間と打ち上げに行く。
 あいつはこのまま、失敗も冒険もせずにそれなりの人生を無難に歩いていく事だろう。

     「能美か…あいつも理樹と同じ大学だったな。」
     「うん。クーちゃん、やっぱり夢を諦めてないみたいだね。」

 ――能美は理樹と同じ大学に進学した。
 学部は工学部でこれもまた理樹と同じ。工学部を選んだ理由は宇宙飛行士になるためだ。
 『こすもーなーふとになりたいですっ(>ω<)』
 学園の最終学年になった頃、クドはそう言って猛勉強を始めた。英語が人並みの成績だったならもっといい大学に入れたかも
 しれないが、それでも能美は理樹と同じ大学に行ける事に大喜びした。
 能美には目標があり、今それに向けて着実に一歩一歩近づいている。

     「………」
     「………」

 俺も小毬も同じ事を考えていた。
 だからお互いの顔を見合わせて深いため息をひとつついた……何で俺達はこんなところで足踏みしているのだろう、と。

     「…ね。鈴ちゃんに電話、かけてみようか?」
     「………そうだな。だが多分今はつながらない筈だ。」
     「…だよね。鈴ちゃん、忙しいもんね。」

 小毬はかばんの中から求人情報誌を取り出した。

 ――棗鈴。いや、違う。今は『なつめりん』だった。
 言うまでもなくこの俺の最愛の妹であるが…。
 学園を卒業後、事もあろうかアイツは家事手伝いを志望した。そしてその願いは努力の末叶ってしまった。
 理由は猫の世話に忙しいから。妹の将来を危惧した俺と理樹は鈴に散々発破をかけた。
 そしてペットショップでバイトを始め、ようやく家事手伝いからフリーターにクラスチェンジしたのだ。
 が、それも一時の事。鈴はネットに嵌ってしまった。
 1日18時間を俺の家のパソコンの前に座り、日がな一日ゴロゴロと猫のように暮らし始めたのだ。
 当然バイトにも行かず、速攻でクビ。
 猫画像を収集し、猫仲間とチャットに明け暮れ、たまに外出したと思えば猫OFFだった。
 あの事故以来、社交的にはなったのでよく遊びには行く。だが、決して働かない。
 印刷会社で働いていた俺は、鈴の将来のキャリアを諦めたのだった。

 が、ある日状況が一変した。
 鈴が自分の猫の写真をとってネットに公開したとき、合わせて自分の顔も公開してしまったのだ。
 おそらくは72時間後ぐらいだったか――鈴はネットアイドルデビューしてしまった!
 近年の癒し動物ブームに猫と可愛い女の子のコラボレーションが見事にマッチしたのだろうか。
 ネットの一部ローカルでは鈴は女神として祭り上げられていたのだ。

 そして俺が会社に辞表を提出した夜。
 意気消沈して家に帰ると芸能プロダクションを名乗るサングラスの男が名刺を差し出してきた。
 俺は目を疑った。元アーティストにしてその名を知らぬものはいない芸能界の大物。
 鈴へのCM出演のオファー、合わせてCDデビュー…次から次へと飛び出す話に俺は目を白黒させるだけだった。
 話がまとまり、家に俺と鈴しかいなくなった時、状況を理解した。
 ――逆転したのだ。俺は職を失い、鈴は新しいステージに上がった。

     「ほら、この雑誌にも鈴ちゃん、載ってるね〜。うふふ、かわいいなぁ〜☆」

 清涼飲料のCM――鈴が芸能界にデビューするきっかけとなったものだ。
 草原と青空をバックにその清涼飲料を手に空の彼方を見上げている絵。
 その姿は俺たちにとって馴染みがあると同時に、どこか遠くに行ってしまった鈴の姿でもあった。

     「あ、鈴ちゃんのプロフィールが載ってるよ〜…えーと、"なつめりん"――」
     「………」

 小毬の言葉につられて俺もその雑誌を覗き込む。
 だけど、どんなに離れていても俺たちの絆は変わらないと信じている。
 鈴が見上げた空の向こう側にはきっと俺達がいるのだろうから。

     「好きなものは猫、お風呂で最初に洗うのは耳、えーと家族構成は…兄弟なしだって!あはは、あはは…は?………あ。」
     「………」
     「うん!見なかったことにしよう!」
     「………」

 俺はスルメをぶちぶち指でちぎっては皿に盛り始めた。

          :
          :



     「恭介くん、不貞腐れないの。」
     「ケッ、別に不貞腐れてなんかないやい!」

 解体したスルメを口に押し込みながら俺はそっぽをむく。

     「でも就職した人には、忙しいかもしれないから気軽に電話できないよね。」
     「そうだな、真人も多分忙しいだろうから今は電話しないでおこう。」

 ――真人は俺と同じように進学せずに就職した数少ない人間のひとりだった。
 元々、大学にいく目的も意味も見出せなかったのだろう。
 自分の天職だと言っていた建設現場で日々働き始めた。
 太陽の下で汗を流し、肉体を鍛え、明日のために休む。
 アイツは1日1日に手ごたえを感じていると言っていたのを思い出す。

     「真人くんも都内を中心に働いているからどこかでバッタリ会うかもしれないね。」
     「だな、だが真人は今主任クラスにまで出世している。現場よりも事務所仕事や会議の方が多いと
      ぼやいていたぜ。」

 そう。真人は出世した。
 面倒見がよく責任感が強い性格なのだから、考えてみれば当たり前の話だった。
 トラブルの対処にも強く、人望もあり周りの人間を笑わせる事ができる男なのだから当然だろう。
 建設業界での出世は基本叩き上げとポストの空き待ち。元々小さな会社で昨今の不動産ブームにより事業拡大
 でポストに対する人材が足りなくなっていたのだ。
 名刺にも『主任』の文字が入り、今では真人は事業ひとつを任せられるほどの権限を持っているのだ。

 ――就職は必ずしも大手、有名企業に入る事が正しいとは限らない。
 むしろ何も考えていない人間ほど、無駄に高い学歴を求め、必要以上にネームバリューにこだわり、自分で道を
 選んだかのように錯覚し満足する傾向にある。会社や学校を単純な序列関係でしか見ることができないのは、
 自分の価値観を自分で決定できていない証拠だ。目的が無いから大衆の価値観に無条件に従う。
 考える頭を持たないから他人の価値観を受け入れるしかない。
 だが、判断力のある人間は自己の能力とそれを発揮できる適当な規模を考える。
 それができた真人は人生においても社会においても成功したのだ。

     「…やっぱり、みんなすごいね…。はぁ…」
     「さらにヘコむ話をして悪いが、謙吾は国際大会団体戦代表の最終選考に残ったそうだ。」
     「ええ〜〜〜〜〜っ!?」

 ――謙吾はみんなとは違う国立大学に入学した。
 都内郊外にある大学で剣道の強豪としても名が知られている。
 『俺にはこれしかないからな…』――そう言ってその大学だけを受験し、見事に合格したのだった。

 俺にはこれしかない――
 謙吾の強みはまさにそれだったように思う。
 ほとんどの人間は、これしかない!というような確固とした信念に基づく目標や方向性など持っていない。
 なぜなら目標がなくても困らないからだ。目標やなりたいものが無くても食事にも寝床にもありつける。
 困らないから目標を持つ必要性が無い。なくても生きていけるから何も考えない。
 ただ漫然と今までさして打ち込まなかった好きなものや趣味に近いものを目標や夢とすりかえ思い込む。
 目標が見つからないから、何も行動を起こせない。消去法で目標が見つかったときにはすでに準備する時間が無い。

 その点、謙吾は違った。
 自己の存在意義を剣道にしか見出せなかった。
 あの事故の後も剣道は謙吾にとってのアイデンティティであり続けた。
 好きとか嫌いとかいう選択的な次元ではなく、これまで築いてきた人生の延長線なのだ。
 だから迷いも無い、ブレもない。他人よりも早い段階で目標が策定されているので、それに対する行動も
 時間的余裕もある。しかも謙吾は努力を怠らない。おまけに天は才能さえも彼に与えた。

     「考えてもみろ。空中でホットケーキを4等分したり、片手でホームラン打ったりとか、常識的に考えて
      人間のレベルを超えているだろ。そんなヤツがたかが人間の国際大会に落ちるわけが無い。」
     「う…うん、そうだね。」
     「まぁ、謙吾はこの時期集中したいだろうから連絡は後日にしよう。あとは…来ヶ谷もダメだな。」
     「うん、ゆいちゃんは海外に留学中だもんね〜。」

 ――来ヶ谷は卒業と共に英国の大学から招待留学を受けた。
 余裕で8ヶ国語を操り、学問についても文学、自然科学問わず大学院生クラスの知識レベル。
 だが来ヶ谷には専門分野がない。何か試験で成績を残したわけでもない。
 そして何よりも来ヶ谷には自分のやりたい事が見つからなかった。
 だが幸か不幸か、来ヶ谷にはあらゆる分野において能力だけはあった。
 そんな中、海外の母親から留学の話が持ち上がり、来ヶ谷はそれに頷いたのだった。
 『恭介氏、やはり私の中身は空っぽなのだよ…。』
 留学を決意した日、来ヶ谷は教室で少し寂しそうに微笑んでいたのを覚えている。

     「結局、来ヶ谷の夢っていうのはなんだったんだろうな。」
     「う〜ん…ごめん、分からない。」

 来ヶ谷は謙吾とは逆だったのかもしれない。
 謙吾が自分の目的のために大学へ進学したのとは逆に、来ヶ谷は目標を見つけるために留学した。
 だがその選択が間違っているとは言えない。
 目標を見つけるのが遅くても、他人よりスタートが遅れても、結局は自分が幸せかどうかに帰着するのだから。
 いつか振り返った時、その選択が正しかったと思えたならそれで十分だ。

     「あとは誰だ? 笹瀬川はスポーツ推薦で有名私大に行ったよな…」
     「それから、かなちゃんはT大の法学部だね〜。私は官僚になってふざけたこの国をぶっつぶすって言ってたよ〜。」

 笹瀬川はスポーツ推薦枠で進学、二木は最高学府の法学部に進んだ。
 どちらも学校にとっては鼻の高い模範的生徒だった。学校の宣伝においてこれ以上ないくらいに。

     「………」
     「………」

 話せば話すほど気分が滅入ってくる。
 底の底まで落ちた今だから分かる――必要なのは崇高な目標となる人間ではなく、傷を舐め合える仲間なのだ。
 瞬間、ふと俺はある人物を思い浮かべる。

     「………西園だ。」
     「………え?」
     「西園なんてどうだ? アイツは何だかんだで大学でも浮きまくってそうだし、どちらかというと
                                  俺達ダメダメな方の人間だと思わないか?」
     「はっ!そ、そうだね!みおちゃんって結構どんくさいところあるし…うん!早速電話してみようよ!」


          :
          :



     『はい、西園です。恭介さんですか?』
     「よっ、元気にしてたか?」

 俺の記憶に残っていたものよりも明るい声が返ってきた。
 背後が少し騒がしい。どこか駅か店にでも入っているのかもしれない。

     『このBGM――ひょっとして恭介さん、駅前の青木屋にいるんじゃありません?』
     「ん? 確かにそうだが、何でそんな事分かったんだ?」
     『ふふ、実は私も今、同じ店にいるのですよ。』
     「なにっ!?」

 俺は携帯電話を耳から離して立ち上がると周囲を見回す。
 が、そこには西園らしき姿は見当たらなかった。

     「恭介くん、どうしたの?」
     「いや、西園が同じ店にいるらしい。」
     「わっ、偶然!それで、みおちゃんはドコにいるの?」

     「こんばんわっ! お久しぶり、恭介さん、神北さん。」

 西園を探していると知らない女性が俺たちのテーブルまでやってきて話しかけてきた。
 パフスリーブで胸元の開いた白シャツに黒のティアードミニのスカート。足元を見ると派手なデザインのチャコールグレーのミュール。
 髪を後ろでアップにまとめ気味にして、胸にはシルバーアクセサリのハートが光っている。
 見た目どちらかといえば男受けを重視した露出の多い派手な女性だ。

     「あ、あぁ…こんばんわ。」
     「は、はい!こんばんわ!( ゚Д゚) 」

 俺も小毬も少し姿勢を正して挨拶をする。
 いったい何の用だろうか、それにお久しぶりっていうのはいったい――

     「恭介さんは見た目もまったくお変わりありませんね。棗さんとそのままデビューされてもいいぐらいです。
      神北さんは…少しばかりふくよかになられましたね。それも可愛げがあってよろしいかと思います、ふふっ」

     「( ゚Д゚) 」
     「( ゚Д゚) っ!?」

 初対面と思しき女性にデブ呼ばわりされて呆気にとられる小毬。
 その横で俺はあるひとつの仮定によって全ての辻褄が合う事に気付いていた。

     「…おまえ、ひょっとして西園か?」
     「…気付いていなかったのですか?恭介さん?」
     「何ーッ!!( ゚Д゚)」

 俺が驚くよりも早く小毬が素っ頓狂な声を上げて立ち上がっていた!

          :
          :



     「これは普通気付かないだろ…。」
     「確かに少しイメージを変えすぎたかもしれませんね。それで恭介さん、私にドキッとしましたか?」
     「い、いや、そんな事はない…///」

 薄くルージュのひかれた唇に人差し指を添えてクスリと笑う西園。
 その仕草のひとつひとつに男を誘うような色気が漂っている。

     「はぁ…みおちゃん、何だか大人になった感じでキレイ…」
     「今日は合コンですのでちょっとモテ系で気合入れました、えへん。」
     「ご、合コン…モテ系……( ゚Д゚)」

 小毬の口の形はさっきから正方形になりっぱなしである。

 ――西園は都心から少し外れた私立大学の文学部に進学した。
 マイナーな分野を志望していたため、自分のやりたい事をするにはその大学しか進学先はなかったのだ。
 そして俺たちが卒業して一番連絡が少なくなったのは西園だろう。
 俺も理樹も便りがないのは元気な知らせと思い、たまに近況報告する程度で顔を合わせる事はほぼなかった。

     「………」
     「もう、そんなに私の顔をじっと見つめられると恥ずかしいですよ。」

 元々素材が良かったのだ。
 女のモテ力はファッション4、体型3、顔2、その他1。
 顔も可愛く体型も細身な西園がファッションに気を使うようになればどうなるか。
 しかも以前よりはるかに積極的になり、社交性という武器まで備えている。
 最初から社交的な人間というのは非常に少ない。みんななりたい自分を演じる事で社交的になっていくのだ。
 美魚にとって大学進学とは引っ込み思案な自分を変える絶好のチャンスだった。

 ――それは鮮烈な大学デビュー。

 女子は基本的に自分たちのコミュニティに可愛い子を引き入れたがる。
 気が合うから集団を作るわけではない。自分の価値を高めるために集団を作るのだ。
 早い段階で学校を政治ゲームの場と認識し、それを楽しむ方向で動き出した人間は容姿・性格に関わらず政治ゲームの勝者になる。
 一方で美人で協調性のある者は政治ゲームにおいてプレイヤーが獲得すべき "金の卵" として、常に政治ゲームの勝者に守られる。
 やがて金の卵の一部は孵化して雛となり、群れを支配するリーダーへと成長するのだ。

 入学式を終え、初日のオリエンテーション。
 華麗に変身を遂げた西園を目の当たりにして、大学の友人たちは自然と美魚を中心に群れを形成した事だろう。

     「あ、みお。ドコ行ったのかと思って探してたんだよー…ん、ひょっとして男引っ掛けてた?あたし邪魔?」
     「違いますっ、こっちは棗恭介さん。学園時代の友達よ。」
     「へー、みおの元彼? ふ〜ん、へー! うわっ、いい男だねー」
     「そりゃどうも。」

 西園の後ろからひょっこりと現れた大学の友達と思われる女の子。
 ゆるいウェーブの長い髪にミントグリーンのコットンワンピ。
 俺はそいつに不躾に顔を近づけられ、全身を嘗め回すように見られる。
 ふむ…この子もよく見れば可愛い部類には入る。
 棗スカウター(※15歳以上対象にカスタマイズ)を通してみても中々のレベル。が、やはりどこかバカっぽい。

 ――女のバカは武器である。
 というよりも不快でない程度にバカっぽく振る舞い、見た目にも中身にもスキを作った方が一般的に男にはモテる。
 理由はそれ以上に男がバカだからである。
 恋愛至上主義市場においては、ある意味このバカを演じる事ができる人間が勝者になる。
 一方でそのシステムを理解できていないプレイヤーは、バカを演じるプレイヤーを馬鹿にするだけでゲームのボーナスを取り逃がす。
 バカを演じる人間は自己のプライドを代償にゲームの勝者になるが、敗者はプライドを守り、その代わりゲームには負ける。
 どちらを選んでもいいが、最終的に他者のプレイスタイルに文句を言うようであればその人間は内心においても勝者ではない。
 この子もそのあたりを理解して実行しているのだろう。
 …もちろん、何も考えていない生粋のバカもいれば、スキを見せずに不特定多数の男にモテるような天性の賜物も存在するが。

     「それじゃこっちの 丸い人 もみおの学園時代のトモダチ?」
     「……( ゚Д゚)」
     「神北小毬さんです。見た目以上にいい子なんですよ?」
     「そなんだ。また今度恭介くんとか改めて紹介してよ。んじゃ行こ!」
     「それでは恭介さん、神北さん。今度一緒に遊びに行きましょうね。」

 フワリ、とフローラルな柔らかい香りを残して踵を返す西園。
 俺はただボーっとその後姿を眺めながら呟く。

     「………西園、かなり可愛くなったな。」
     「………( ゚Д゚)」
     「………小毬?」
     「………( ゚Д゚)」
     「デブいと言われたからって気にするな。」
     「丸い、だよっ!」

 一瞬激昂してすぐ沈む。
 さすがに堪えたらしい。それまで自分でも多少気にしていたのだろう。
 だが、本人が意識している像以上に、まわりはその人の体型を客観的に観察している。

 小毬は甘いものが好きだ。
 それこそ三度の飯より甘いものが好きだ。小毬自身もその欲望に忠実であり、小毬の肉体もそれを許容していた。
 が、状況が変わったのだ。食べた分だけ太るようになった。成長期のピークを過ぎて肉体はこれ以上の成長を望まない。
 それに気付かず、小毬は以前と同じペースで甘いものを食べ続けた。普通は加齢と共に食べる量を減らさなければならない。
 ある程度状況の変化に敏感な人間なら、危機を感じてすぐに量を減らすだろう。
 まずは顔の輪郭が膨らみ丸くなる。次に二の腕、腰、やがて指先まで肉々しくなる。
 だが、小毬はそれらの兆候に目を背け、これからも幸せな日々が続くと信じていた。
 それはあたかも日本の永遠の黄金期を信じてバブル期に過剰投資を行ったかのようだ。
 当然、バブルは崩壊し巨額の負債だけが残った。そして小毬には余分な肉が残ってしまったのだ。

     「まぁ、気にするな。ほら、甘いものは人を笑顔にするんだろ?」
     「………」
     「………小毬?」
     「………」

 新しく注文したドロリ濃厚ピーチ味を持っていってみる。
 当たり前ながらデブ認定された小毬が手を出すはずもなく――

 ――ダンッ!ダンッ!ダンッ!

     「キタキタキターッ!!( ゚Д゚)」
     「そこで飲むのかよっ!?あらゆる意味で!?」
     「にはは…こまりちゃん、ピーンチ!」
     「まるで危機感が感じられないのが小毬らしいな。」
     「いいもん!このあとい〜〜っぱい運動して、ぐんぐん痩せちゃうんだから!」
     「そ、そうだな。小毬は少しぐらいふくよかな方がかわいいさ。」
     「そうだよねー☆」

 ああ、俺はそんな弱いおまえが好きさ…。

          :
          :

     「でもさー。ショックだよねー。特に私の場合はあらゆる意味で。」

 やさぐれた小毬が口を尖らしている。
 脂肪の他に、きっと西園の事も言っているのだろう。
 まさかあそこまで華麗に大学デビューして充実の日々をすごしているなんて思いもしなかったのだ。
 ちょっと離れた席で見知らぬ男たちと騒がしくやっている様子を見て小毬も俺も暗い暗いため息をつく。
 こんなに賑やかな飲み屋にあって、俺達は過ぎていく時間に取り残される寂しさを味わっていた。

     「理樹、謙吾、真人、鈴、来ヶ谷、能美、それに西園まで…」
     「さささささーちゃんもかなちゃんも人生栄光に満ちているって感じだよね…」
     「………」
     「………」

 ――カチンッ

 俺達は無言で水グラスをかち合わせる。
 そのチープな音は心の中にむなしく響き渡った。

     「…やっぱり俺達が一番のダメ人間なんだろうな…」
     「だね…。ダメダメな方の小毬ちゃんとダメダメな方の恭介くん…。ハァ…」
     「ん、ちょっと待て。理樹、謙吾、真人、鈴だろ?」
     「クーちゃん、ゆいちゃん、みおちゃん――あ!」

 小毬は気付いたように口を大きく開く。
 いたのだ…!まだいたのだ…!俺達を凌ぐダメ人間最有力候補が…!
 常に周りを巻き込んで無意味な事に奔走し、その性格は生涯変わる事はないであろうキャラクター!
 優秀な姉を持ったその立場にも俺はシンパシーを覚えてしまう。

     「はるちゃんだ!(*⌒▽⌒*)」

 小毬はパァと笑顔になるとその名を叫んだ。

          :
          :


     「やはー、恭介くん、こまりん、こんばんわーっす!」
     「お…おぉ……!」

 電話をして三枝は30分後に姿を現した。それを見て――俺も小毬も喜びに打ち震えた。
 ピンクのウインドブレイカー…というかジャージにサンダル。適当にまとめたようにしか見えない長い髪。
 カラーリングだけは女の子っぽいが、ジャージで繁華街を歩くあたり、もはや女を捨てるのも時間の問題だろう。
 だらしなく裾を引きずって何の疲れもない笑顔で歩いてくる姿を見て俺達は確信した。

     「いよっ!ダメ人間!」
     「わっ!? イキナリ何ですカー!?」
     「まぁとりあえずココに座ってくれ。俺達はおまえを新たな仲間として歓迎する!」
     「なんだかよく分からないけど、はるちん、歓迎されましたヨー。あ、私カシスオレンジ!(><)ノ」

 店員を呼ぶと次々と料理を注文していく三枝。
 何か目標に向かって突き進む気鋭さも、社会で揉まれて洗練された様もまったく感じられない。
 お互いの傷を舐めあえる仲間を見つけて俺達は興奮気味である。

     「んぐ…んぐ…プハーっ!(><)でさ、恭介くんもこまりんも今は何やってる人なの?」
     「えーと恭介くんはね、無職さん。それから私は大学生だよ〜」
     「60万円の借金持ちのな。」
     「おー、それはそれは…人生という名の双六で一回休みという感じですナ。うん、やっぱ人生もっと回り道しないとネ!」

 その無責任な言葉は傷だらけの俺達の心に暖かく染み渡る。
 そして俺達は三枝が仲間である事を確認するために本丸に切り込んだ。

     「はるちゃんは今、何やってるの?」
     「私? そだネ。何か人生の充電期間って感じ? お姉ちゃんの将来を応援すべく、サボテンに水やったりとか。」
     「…っお、おお! って事は三枝は二木の家に居候してるのか。」
     「ほら、ふたりで一緒に住んだほうがエコっぽくていいじゃん。やっぱ姉妹は仲良くなのですヨ。」
     「そ、それじゃはるちゃん! アルバイトとかしてるの?」
     「へ? やはー。なんかサ、私って労働とか向かない人間だと思うのですヨ。それに働いたら負けかなーなんて、そんなカンジ?」
     「おおおぉぉぉぉぉっ!!」

 ――ニートの身分で俺達が言えないことをこうもあっさりと公言できるなんて…!
 俺も小毬も心震え感動に背筋が痺れた。
 世の中立派な人間だけじゃない。俺や小毬なんかよりももっとダメダメなヤツが世界にはいる――
 そんな人間の存在がどうしようもない俺達に生きる勇気をくれる。

     「ありがとう!三枝! ありがとう!ダメ人間!」
     「はるちゃんは私達の希望の星だよ〜☆」
     「はわわっ!? 何だか誉められているのか馬鹿にされているのか分からないのですヨ!?」

 小毬と再会してから5時間後、ようやく俺達の宴は明るさを帯びてきた。

          :
          :


     「ホー、みおちんは大学デビューですカ…。ウチのお姉ちゃんなんてあずき色のジャージに首にタオル巻いて大学に
      通ってて色気なんてゼロですヨ〜。あ〜!、ウーロンハイもうひとつ〜ぅ!」

 宴も酣(たけなわ)――
 昔話に花を咲かせ、それぞれの近況を語っては酒の席を沸かせる。
 三枝はほとんど酔っ払って赤い顔でテーブルに肘をつき、小毬もショートケーキをつつきながらケタケタと笑っている。

     「学園を卒業してから、こんなにみんな違う状況になってるなんて思いもしなかったよ〜」
     「ま、みんなそれぞれ目指すものも性格も違うからな。むしろ、そんな奴らが学園のときに一緒につるんでいたのが
      不思議なぐらいさ。」
     「理樹くんがみんなを集めたんだもんね。あの頃は野球をしたり、缶蹴りしたりして…」
     「確かにぃ〜いろいろ無茶もしたし〜楽しかったよネー…ふわ……」
     「やっぱ、学園にいた頃が一番楽しかったな――」

 不意にテーブルに静けさが訪れる。
 みんな学園時代の事を思い出しているのだろうか。
 明日の事を考えるのが楽しかった頃――
 楽しくてたまらない今を漠然と明るい未来に重ねて笑い合っていた時を。

     「…おまえもさ、今の状況がダメだって思っているんだよな…って三枝、寝てるのかよ。」
     「………Zzz」

 コトンと音を立ててテーブルに転がるグラス。
 口の端からよだれを垂らしながら、三枝は夢の世界に一足先に飛び立っていた。
 
 見ている夢は未来の事だろうか、それとも過去の事だろうか――

     「なぁ――」 
     「うん…?」
     「俺はあの時、今しかできない思い出を作りたくて、大事な時期に野球なんてバカな事を始めた。
      その結果、俺は就職活動にも失敗して、これからも思い描いた未来を歩めないかもしれない。」
     「………」
     「俺は…正しかったのか?」

 空になったグラスを見つめながら、俺は誰ともなく問いかける。
 あの時、野球なんか始めずにもう少し真剣に将来の事を考えて計画を立てていれば今よりはいい未来になったんじゃないか?
 今しかできない思い出をつくるよりも、今しか変える事ができない未来を優先すべきじゃなかったのだろうか?

     「…恭介くんは、後悔しているの?」

 しばらく間をおいて小毬が穏やかな口調で訊ねる。

     「少しだけ――ほんの少しだけ…分からなくなったんだ。思い出ってのは未来よりも大事だったのかってな…。
      思い出があれば、こんな辛い現実も生きていけるのかってな…。」
     「………」
     「だったら思い出なんていらねーから、少しでもいい未来のために努力すべきじゃなったのか。世間のヤツが言うとおりだった。
      今さえよければいい、で生きてきても結局、今なんて良くならなかったしな…。ははは…」

 ふと口をついて出てきた弱音――それは現実に直面した俺の本心だったのかもしれない。
 昔の俺なら絶対にそんな事は言わないだろうし、弱音を吐くなんてそれこそ俺らしくもない。
 だけど、それは何も知らなかったからこそ言えた言葉だったのだと気付かされのだ。

     「私は――ヤだな…。」
     「…え?」

 ポツリと呟いた。

     「今を犠牲にした未来なんて、未来になったらまたその次の未来を犠牲にするだけだよ。未来のために、未来のためにって
      苦しい思いしてがんばっても…それじゃその未来はいつになったらくるの?」
     「それは…」
     「思い出とか今を犠牲にして得た未来も…やっぱりどこか物足りないと思うよ。多分、恭介くんがホントに欲しかったものじゃない。」
     「………」

 俺は顔を上げて小毬を見つめる。
 そんなキレイごと、いくらでも言い返せる。現実を知らないからこそ、言えるような話だ。
 だけど俺は…小毬の言葉に頷いていた。だってその言葉は――俺が昔、小毬に言った言葉だったのだから。

     「それに…」
     「それに?」
     「思い出がなかったら、お酒を飲むときに話すことがなくなっちゃうよ。」
     「………そうだな。そんな寂しいのは嫌だな。」

 小毬の微笑みに俺も笑顔を返す。

     「あの…お客様、そろそろ閉店の時間になりますので――」

 少し申し訳なさそうに小声で話す店員。
 ふと腕時計に視線をずらすとかなりいい時間になっていた。

     「今日はこのあたりでお開きって事だな。」
     「うん。今日は楽しかったよ、また近々こうして飲みに行きたいね!」
     「ムニャ………Zzz」

     「とりあえず、お会計の方だけお願いできますか?」

     「………」
     「………」
     「ニャハハ…もう食べられないですヨ………Zzz」

 小毬、なぜそこで笑顔のまま俺を見つめる。
 だから俺も負けじと精一杯の爽やかなスマイルを返してやる。

     「………」
     「………」
     「………Zzz」
     「それじゃ私とはるちゃんは先に外に出て待ってるね♪」

     「   ち   ょ   っ   と   待   て   コ   ラ   」

 小毬は逃げ出した!しかし回り込まれた!

     「恭介くんも知ってるでしょ!? 私、借金60万円!っていうか所持金1000円だよ…」
     「小毬も知ってるだろ!? 俺は無職だ!しかも1年間!ってか財布に1500円しかないぞ…」

     「めざせぇ〜満漢全席ぃ………うにゃ…」

 のんきに寝言をほざいている三枝を見て俺も小毬も考えが一致したようだ。
 俺と小毬、二人の力を合わせてダメだとしても、三人が力を合わせれば…!

     「小毬。」
     「らジャー!」

 早速、小毬が三枝のジャージをあちこちまさぐり始める。
 が、徐々にその顔が青ざめてきた。

     「こ、この女、財布自体持ってきておりません…!( ゚Д゚)」

     「さすがダメ人間っ!?」

 俺は妹に罵倒される言葉を想像しながら、泣く泣く携帯電話を取り出したのだった。








 【終わり】


 あとがき

 夢のないお話ですw
 恭介の考えがえらく極端になっておりますがそこはあまり気になさらずに…。
 でも、ホントのはるちんはきっとがんばる子!

 海鳴り



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